柳田国男が自身の著作『妖怪談義』で、妖怪は神が零落したものであるという、いわゆる零落説を述べたことは有名です。しかし、この説を批判したのが、現在、妖怪研究の第一人者として知られる小松和彦です。彼の妖怪論が現在では一般的な妖怪論として受け入れられています。(あくまでひな吉個人の感覚です。)
柳田国男の零落説
柳田国男は神が妖怪化する過程を四つの段階に分けます。それを噛み砕くと、以下のような感じになります
①敬い遠ざける状態
:「妖怪」が出るような場所をさけたりし、不安が絶えない
②「妖怪」を否定しようとする状態
:「妖怪」に挑もうとするが、それでも内心では気味悪く思う
③「妖怪」が退治される物語が生まれる状態
:神の威徳や仏の慈悲を語る物語の中に組み込まれ、退治される存在としてえがかれる
④「妖怪」が愚かなものとしてえがかれ、説話からきえていく状態
:③の話が誇張され、馬鹿げていて弱く、愚鈍なものが「妖怪」であるとして帰着し、説話から姿を消す
柳田はこの考えを「我々の妖怪学の初歩の原理」であると述べています。
零落説に対する批判
まず、小松は柳田の零落説に対してこのような批判を述べます。
彼の妖怪学の「初歩原理」とは、いわば≪一系的妖怪進化(退化?)説≫なのであって、すべての妖怪が一様に神の零落したものと把握され、したがって、その他の可能性、例えば人間→妖怪、動・植物→妖怪、妖怪→神、といった可能性はまったく排除され、否定されてしまっているのである。
小松和彦『憑霊信仰論』
つまり、柳田は神→妖怪の構造しか説明していなくて、それ以外の可能性がまったく考慮されていないじゃないか、ということです。
小松和彦の妖怪論
〈妖怪〉と〈神〉
小松の妖怪論を語る上で重要なポイントは、小松は神と妖怪を便宜的に、「人々によって祀られている超自然的な存在」が〈神〉で、「人々に祀られていない超自然的存在」を〈妖怪〉と呼びます。
ただし、あくまでこれは便宜的な分け方であり、〈神〉や〈妖怪〉が本当にそうやって意識して区別されてきたのかは別問題である、ということを念頭においてください。
小松は神→妖怪や妖怪→神のプロセスがみられる例として、『常陸国風土記』の「夜刀の神」(=角のある蛇)をあげています。
〈「夜刀の神」の話〉
継体天皇の時代に箭括麻多智という豪族が〈西の谷の葦原〉の開墾を始めたが、夜刀神の群に妨害された。激怒した麻多智は鎧を着て、仗を取り、神々を打ち払い、杭を立てて境界を設定し、みずから祝(祀祭者)となって夜刀神をまつった。
「夜刀の神」は新田開発を妨害する、人間にとってマイナスの価値を帯びた神、すなわち〈妖怪〉として退治されてしまいます。これは確かに神→妖怪のプロセス(零落説)といえるでしょう。
しかしその後、〈妖怪〉であった「夜刀の神」は、〈神〉として祀り上げているのです。これは妖怪→神のプロセスにあたります。
ここから小松は、超自然的な存在が、祀るという行為を中心にして、〈妖怪〉と〈神〉の間で揺れ動くということを示します。
〈妖怪〉と〈鬼〉
さらに、〈妖怪〉というカテゴリーの中に含まれる、「鬼」について小松は言及します。
〈妖怪〉というカテゴリーに入る存在は、人間に対してマイナスの価値をもったものと、そうではないものが存在します。そうではないものというのは、例えば人々に恐怖の感情を引き起こさせるが、無害であるといったものです。いわゆる、ただの不思議なモノゴトです。この、ただの不思議なモノゴトは、人間にとってプラスでもマイナスでもありません。
一方で、「鬼」は人間に直接危害を加えてくるという点で、マイナスな価値を帯びています。ここで、〈妖怪〉カテゴリーの中の「鬼」が、人間にとってプラスの価値観を帯びている〈神〉と対立する構造をとることがわかります。
〈神〉〈鬼〉〈人間〉の三項対立
すると、みえてくる構造がまとめられているのが、こちらの図式です。
つまり、〈人間〉はマイナスの価値を帯びると〈鬼〉になり、プラスの価値を帯びると〈神〉に近づく、ということです。
参考文献:小松和彦『憑霊信仰論』
妖怪好きにとって必読書ともいえる一冊です。
ひな吉が今回まとめた小松和彦先生の妖怪論はこの本の「山姥をめぐって ー新しい妖怪論向けてー」に収録されています。詳しく知りたい方、ぜひ読んでみてください。
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